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2009.01.27 Tue

「オズの魔法使い」には、「脳のない案山子」と「心のないブリキの木こり」と「臆病なライオン」が出てきますが、これらのキャラクターが求めていたものは、「本質をとらえる知」、「他者を感じる力」、「先頭に立つ勇気」であり、この3つが備わっていて初めて、人間としてまっとうに生きられることを表していることを朝日新聞の別刷「GLOBE」の記事で小宮山宏東大総長の言葉として知りました。記事の中で、教養というのは、高等教育を受けた人間としてまっとうに生きるために、身につけなければならないものなのに、近頃は教養が「知的な見栄」になってしまっていると語られています。知の欠如、他人を思いやる想像力の欠如、勇気の欠如、私を含めて現代を生きている多くの人は、いずれも欠如しているように感じますが、中でも知の欠如は、20世紀に知が爆発して、膨大な知の前にその全体像を把握することが難しくなってしまったことが原因で、結果として、国民の教養レベルの低下を招いたとも言えます。受験教育の弊害も否めないでしょう。この前読んだ「日本語が亡びるとき」の中でも、これからの時代に叡智を求める人は、高度な二重言語者にならないといけないと語られていましたが、世界中の叡智が英語で記述され、英語が普遍語として使われる時に、日本人が英語を使いこなせないままだと、世界の知のレベルから取り残されていくと警鐘を鳴らしていました。ただ、誰もがバイリンガルになるのでなく、国を代表するであろう一部の知的エリートに、徹底したバイリンガル教育を施せというのが著者の主張のようでした。現在の日本で、知的エリートが集まっているはずの東大生でさえ、教養レベルの低下は甚だしいものがあるようです。朝日新聞の記事では、全寮制の旧制高校の教育方針と隠されたカリキュラムが、エリート養成に役立った教養教育だったと書かれています。確かに、我々の頃の大学の一般教育課程は、卒業単位を取得するために嫌々ながら受けなければならない必修科目でしかなく、誰もその科目の重要性を感じている学生はいなかったと思われます。ところが1991年以降、一般教育課程がなくなった大学がほとんどだというのも今回の記事で知りました。今の大学は4年間の限られた時間の中で専門知識を教えることに精一杯で、教養教育に割く時間的余裕がないようです。しかし、医学や電子工学などの理系に限らず、人文科学や社会科学などの文系でも、知の最先端は高く聳え立っていることでしょう。高校生から大学生になって、たった4年で現代の学問の先端の知を完璧に履修できるとも思えません。大学卒業程度の知識レベルでは、即最先端分野で活躍することは難しいかも知れませんが、地頭がよければ、オンジョブトレーニングで現場のスキルはすぐに身につきます。現在の大学に求められているのは、入学したとたんに勉強しなくなる学生をなくすこと、とにかく入学してからしっかり勉強しないと卒業できない仕組みを作ることの方が先決問題でしょう。