LOADING

2009.01.08 Thu

「日本語が亡びるとき」をやっと読了しました。著者は、英語の世紀の中で、日本語が亡びないためには、国は学校教育のなかで、「国民の一部を優れたバイリンガルにすることを目指すこと」と「国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべき」と主張しています。いずれの主張もなるほどと首肯できる説得力のある内容です。「英語で意味のある発言ができる人材」づくり、高い英語力を持った二重言語者を養成することが急務であり、国を代表する国会議員、国家公務員、研究者、大学教授などの養成に際して、英語の読み書きだけでなく、母語に準ずるまでのバイリンガル教育を徹底させるべきだとの主張ですが、そのためには、教育現場の平等主義をやめることから始めなければなりません。著者は日本と日本語を愛するが故に、文部科学省の無策に激しい憤りを表明しています。しかし、具体的にどのようにバイリンガル教育をするのかに関してはあまり語られていません。また、「英語ができなくてはという強迫観念」を感じている親が非常に多いため、小学校から英語を教えることにするにしても、「国民総バイリンガル」を目指す必要など、さらさらないとも言います。インターネットの時代に必要なのは「片言でも通じる喜び」などではなく、「世界中で流通する<普遍語>を読む能力」であり、学校教育では英語を読むとっかかりを与えるだけで充分、「とっかかりさえ与えたら、その先は英語を選択科目にしてもよいくらいで、学校教育の中の必修科目としての英語は『ここまで』と」いう線引きをして、「すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提ーすなわち、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということ」「そうすることによってのみしか、<国語>としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念として掲げることはできない」というのが著者の最も言いたいことのようです。インターネットの時代の普遍語となった英語とのつきあい方を国家として誤ると、半世紀もたたないうちに日本語自体が亡びるというのは、けだし卓見だと思います。日本語は、「叡智を求める人」が読み書きする国語として、明治以降、洗練というか進化を遂げてきただけに、日本語で学問をしたりも、文学をしたりできるから、日常的に外国人と接触する環境にいない限り、英会話に関しては、ブロークン・イングリッシュでも通じればいいと錯覚しがちなのも事実です。著者は大衆消費社会における文学の終わりを嘆いていますが、盤石なはず(?)の日本語と日本文化が相当危うくなっていることもまた、誰の目にも明らかです。巷に溢れる広告コピーがその片棒をかついだとも言えそうです。日本語を仕事の道具にしている者として、忸怩たるものがあります。(でも、これって現地語としての日本語の問題かも、英語だって文化レベルの低下は日本語と似たようなものだろうし・・・。)